Mr.ブラボーの幸せになるこころの法則

Mr.ブラボーはこころの幸せについて、いつも考えています。お金や物も大切ですが、Mr.ブラボーは「こころの幸せ」が真の幸せだと考えています。このブログは宗教とは関係ありません。ブログの更新は、毎週水曜日の予定です。 この処方箋がみなさんの心の健康にお役に立てば幸いです。初めてこのブログをお読み下さる方は最初にこちらをお読み下さい。

2011年05月

失うことについて

すべての形あるものは、いつかは形がなくなるか、消えてなくなってしまいます。これを、「エントロピー増大の法則」と呼びます。整然とした状態は混沌とした無秩序状態に向かいます。
そうでなくても、人は大切な人を失ったり、大切にしていた物を紛失したり、壊れたりして失うことがあります。
世界中に1つしかない大切なものは、失いたくないですよね。代わりがないのですから。
人は失うことを恐れます。大切な人や物を失うと、心の安定が保てなくなりますし、悲しみや喪失感を感じます。
逆に、大切な人や物を失って初めて、人や物のありがたみが分かることがあります。
私は大学時代に上京(本当は埼玉県でした)し、一人暮らしを始めました。そのときに初めて体験したことなのですが、高校時代まで実家で暮らしていたときには、炊事、洗濯、掃除等はすべて母親がやってくれました。一人暮らしを始めてから、それまで母親がやってくれたことをすべて、自分でやることになり、母親のありがたみが初めてわかりました。そのかわり、誰からも何も言われないという「自由」を得ました。
私は昔、よく物を無くしました。何処にしまったか分からなくなる事も、使いたいときに使えなくなるという点では、その時点においては無くしたのと一緒です。よく探し物をしている私に対して母は「あなたは人生の大切な時間を探し物に費やしている」とよく言ったものです。いっそのこと、すべての持ち物に発信機を付けておきたいと思ったくらいなのですが、そんなことは現実的ではありません。社会人になってからは、持ち物はすべてしまう場所を決めておき、必ずその場所にしまうように習慣付けました。物を紛失するときは、決まって無意識にしまったときです。小さなものは決められたポーチ等に小分けにしまうようにしましたし、鞄のどのポケットにしまうかも決めています。電車に乗っている間は定期入れを必ずズボンの右前ポケットにしまうようにし、電車を降りてからは鞄の決められたポケットに定期入れを移し変えます。
子供が大きくなってからは、私の物を子供が勝手に使って元に戻さず、無くなってしまうことには閉口しています。家族と一緒に暮らしていると、一人暮らしと違って、物の管理が多少むずかしくなります。そういうときには、後で子供に私の物を勝手に持ち出さないようにと言い聞かせます。それでも私は家族ができて、妻や子供にめぐり合うことができました。家族で暮らすことは多少大変なこともありますが、お互いに影響しあって、得ることも多いと思います。
人は失って初めて、人や物の大切さに気づくことがあります。みなさんも、いろいろと経験があるのではないでしょうか。

それでは、また。

単純化することについて

現代のこの世の中、情報が氾濫し、とかく複雑になっています。この複雑さが人を不幸にしているとも言えます。
また、たびたび新約聖書を引用して申し訳けないのですが(断っておきますが、私はクリスチャンではありません)、新約聖書には「人間は物事を複雑にしすぎる」と書かれています。テレビやインターネットを通しての情報には嘘もたくさん含まれています。特に、テレビのバラエティー番組は創作した嘘で作られています。
世の中が複雑になっているのは、先ほど申し上げた、テレビやインターネットを通しての「情報の氾濫」もあるのですが、一番の原因は人間が持っている「感情」だと私は思っています。
人は感情に溺れると、論理性を失い、思考や判断を誤ります。誤った思考や判断が渦を巻き、周りの人々を混乱させ、それがまた感情に訴えかけて、不幸の渦(スパイラル)を作り出しています。
また、ほとんどの人はつじつまあわせのために嘘をつきます。この嘘が論理をかき回して、情報を複雑にし、人々をよりいっそう不幸にしています。何でもバカ正直に言えばいいというものではありませんが、つじつまあわせのために嘘をつくよりも、言いたくない事は黙秘を守り、言わない方がずっと素直だと思います。
物事を単純化するためには、まずは本当の事と、嘘を見極めることから始まります。何が真実であるかを見極めます。また、複雑な事は「モデル化」すると簡単でわかりやすくなります。たとえば、複雑な遺伝子(DNA)もモデル化し、立体図形化することで、人間にも理解できるようになりました。DNAは4つの異なる塩基(ヌクレオチド)から構成されています。それぞれの塩基にA・T・G・Cという文字が割り当てられており、必ずAとT、GとCがペアになっています。
感情に溺れないようにするためには、ある程度感情をコントロールすることが必要です。感情をコントロールするには、以前にも書きましたが、感情のボリュームを絞る訓練を常日頃から行います。これは、感情にブレーキをかける事とは違います。どちらかというと、アクセルを緩めることに近いです。
素直な心を持ち、真実を見極め、常に平常心を保てるようになると、感情の渦に巻き込まれることはありません。多くの人がこれをできるようになると、世の中の多くの人がもっと幸せになれると思います。

それでは、また。

心の中で賭けをしない

みなさんは、心の中で賭け(かけ)をしたことが何度もあるのではないでしょうか。過去に私は何度もあります。
「心の中で賭けをする」とは、例えば次のような事です。
(1)あと、10秒で信号が変われば、何か良いことがある。
(2)横断歩道の白線を踏み外さないで渡りきれれば、何か良いことがある。
(3)道路わきの白線を踏み外さないで向こうまで歩ければ、地球は滅亡しない。
などです。
ここで注意しなければならないのは(3)のようなマイナス思考の心の賭けの場合です。確かに、賭け事は(実際に金銭を賭けなくても)ワクワクして楽しいものです。私も競馬のG1レースを1年間買い続けたことがありますが、結果的にトントンで終わって、少しも儲かりませんでしたが、レースを見ているときにはワクワクして楽しい思いをしました。
賭け事には大きな落とし穴があります。賭けに勝ったときには「得られる」のでいいのですが、賭けに負けたときに「失う」ということです。たいてい、人は賭けに勝つまで、ずっと賭け続けることになります。これでは心の平静が保てません。いっそのこと「賭け」をやめてしまったほうが、ワクワク感はなくなりますが、心の平静を保つことができます。心の平静は即(すなわ)ち、心の幸せを意味します。
また、「神(または悪魔)に誓う」ということがあります。例えば次のような事です。
(1)神(または悪魔)に誓って、これをやり遂げる。もし、やり遂げられなければ、命をとられてもかまわない。
(2)病気(特に難病)が治れば、神の存在を信じる。
などです。
人は常に心の支えを探しています。クリスチャン(キリスト者)は神の存在を心の支えとしているでしょうし、自分の子供の成長を心の支えとしている人もいます。高価な物品を買い集めて所有することを心の支えとしている人もいます。
新約聖書には「神に誓ってはいけない」と書かれています。この解釈は、「畏(おそ)れ多い神を安易に誓いの対象に使ってはいけない」という意味だと思います。
心のしがらみから開放されるために、「心の中での賭け」をやめ、平穏なこころを得られてはいかがでしょうか。

それでは、また。

良い人になりすぎない

良心を持った人の大半は、常日頃から「良い人」になろうと努力します。「一日一膳」などという言葉も日本人に定着してきました。ただ、ほとんどの人は「良い」と「悪い」の中間に「普通」が存在することを忘れています。この「普通」とは「良い」と「悪い」の間に無数に存在し、また「良い」と「悪い」も時代や価値観によって逆転したりします。
世の中には本音と建前(たてまえ)があります。ある日のこと、車でパトロールカーの後を走行していたことがあります。緊急時以外はパトロールカーも制限速度を守らなければなりません。ところがほとんどのパトロールカーは制限速度をオーバーして走行しています(この場合制限速度40キロのところを50キロで走行していました)。もし、このパトロールカーが制限速度を守って走っていたら、その道路は車の流れがスムーズに行われなかったと思います。50ccバイク(原動機付き自転車)の法定制限速度は時速30キロですが、30キロで走っている人はほとんどいません。逆に30キロで走られては、車の流れがスムースに行われません。たとえ、50ccバイクが時速40キロで走っていても、スピード違反で捕まったバイクは見たことがありません。
次に、電車の中でお年寄りや体の不自由な人に席を譲ることを考えてみます。これはある意味「当たり前」のことですが、私は自分が風邪をひいて体の調子が悪いときや、仕事等で疲れ切っている時などは元気そうなお年寄りには席は譲りません。ただし、私が優先席に座っている場合には、疲れていても席を譲ります。後で座席を譲るのが面倒なので、なるべく優先席に座らないようにしています(優先席はあくまでも優先席であり、専用席ではないので、空いているときには座ってよいことをお忘れなく)。
自分が疲れているときに、座席を譲ったときなど、譲ったあとに(譲らなければよかったと)心に葛藤が起きる場合があります。心に葛藤が起きるぐらいなら、最初から譲らなければいいと思います。無理をすると心に歪みが生じます。心に歪みができると、それがストレスに変わり、心の健康を害します。
先日、ニュースで老後のために細々と蓄えておいたお金をすべて、東日本大震災の被災者への義援金として差し出した老人の美談が報道されました。義援金を差し出すのは、本人の自由なので、私がとやかく言う筋合いではありませんが、私ならば差し出しません。特に日本人は周りに影響されやすい国民性を持っています。確かに、周りに合わせれば、気持ち的に楽なのかもしれません。
私は自分を犠牲にしてまで「善」を行う必要はないと思います。ある程度、自分が満たされてから「善」を行えばよいと考えます。それでは「偽善」だという人もいるでしょう。私は「偽善」も「善」だと考えます。お金の無い人がなけなしのお金で買ったパンと、お金持ちが余ったお金で買ったパンに、もらった人は何の違いがあるでしょうか。
ちょっと冷たい言い方になってしまいましたが、まずは「普通」を目指し、「普通」ができるようになってから「善」を目指せばよいのではないでしょうか。

それでは、また。

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