良心を持った人の大半は、常日頃から「良い人」になろうと努力します。「一日一膳」などという言葉も日本人に定着してきました。ただ、ほとんどの人は「良い」と「悪い」の中間に「普通」が存在することを忘れています。この「普通」とは「良い」と「悪い」の間に無数に存在し、また「良い」と「悪い」も時代や価値観によって逆転したりします。
世の中には本音と建前(たてまえ)があります。ある日のこと、車でパトロールカーの後を走行していたことがあります。緊急時以外はパトロールカーも制限速度を守らなければなりません。ところがほとんどのパトロールカーは制限速度をオーバーして走行しています(この場合制限速度40キロのところを50キロで走行していました)。もし、このパトロールカーが制限速度を守って走っていたら、その道路は車の流れがスムーズに行われなかったと思います。50ccバイク(原動機付き自転車)の法定制限速度は時速30キロですが、30キロで走っている人はほとんどいません。逆に30キロで走られては、車の流れがスムースに行われません。たとえ、50ccバイクが時速40キロで走っていても、スピード違反で捕まったバイクは見たことがありません。
次に、電車の中でお年寄りや体の不自由な人に席を譲ることを考えてみます。これはある意味「当たり前」のことですが、私は自分が風邪をひいて体の調子が悪いときや、仕事等で疲れ切っている時などは元気そうなお年寄りには席は譲りません。ただし、私が優先席に座っている場合には、疲れていても席を譲ります。後で座席を譲るのが面倒なので、なるべく優先席に座らないようにしています(優先席はあくまでも優先席であり、専用席ではないので、空いているときには座ってよいことをお忘れなく)。
自分が疲れているときに、座席を譲ったときなど、譲ったあとに(譲らなければよかったと)心に葛藤が起きる場合があります。心に葛藤が起きるぐらいなら、最初から譲らなければいいと思います。無理をすると心に歪みが生じます。心に歪みができると、それがストレスに変わり、心の健康を害します。
先日、ニュースで老後のために細々と蓄えておいたお金をすべて、東日本大震災の被災者への義援金として差し出した老人の美談が報道されました。義援金を差し出すのは、本人の自由なので、私がとやかく言う筋合いではありませんが、私ならば差し出しません。特に日本人は周りに影響されやすい国民性を持っています。確かに、周りに合わせれば、気持ち的に楽なのかもしれません。
私は自分を犠牲にしてまで「善」を行う必要はないと思います。ある程度、自分が満たされてから「善」を行えばよいと考えます。それでは「偽善」だという人もいるでしょう。私は「偽善」も「善」だと考えます。お金の無い人がなけなしのお金で買ったパンと、お金持ちが余ったお金で買ったパンに、もらった人は何の違いがあるでしょうか。
ちょっと冷たい言い方になってしまいましたが、まずは「普通」を目指し、「普通」ができるようになってから「善」を目指せばよいのではないでしょうか。

それでは、また。